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南九州「神話」巡り その1 [南九州と神話]

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「ダグリ岬付近にて」

さて、今回は前回の続き。
それではいよいよ、南九州の神話の地をぶらりと巡ってみようと思う。
今回はホントに話が長い。ホントすみません。
でもきっと面白い話が見つかるので(ヒマなら)読んで欲しい。

今回訪れる場所は主に2か所。

1か所目は鹿児島県の大隅半島入り口付近に鎮座する、吾平山上陵(あいらやまじょうりょう)。吾平山上陵は初代天皇である神武天皇の両親の墓と言い伝えられ、現在でも宮内庁による管轄となっている知られざる陵墓だ。

2か所目は鹿児島県曽於(そお)の北東端にある檍(あおき)神社だ。イザナギが体を清めたとされる神社である。この神社は古事記と日本書紀には登場しない。これまた知られざる神社だ。さて何故なのかを考えてみようということだ。

道中の詳細はYoutubeにアップした動画も見ていただければ、分かりやすいと思う。
ちなみに自分の動画は長い。話も長いが動画も長い。とにかく長い。30分から45分を目安にしている。
多くの他の人の旅動画を見ているが、そのほぼ全てが短すぎると常々思っていたからだ。
もちろん短くダイジェストで面白い部分だけをまとめたほうが多くの人に好まれるだろうし、何かと「急ぐ」現代人にはぴったりで、さらに視聴回数も稼げる。
しかし旅の雰囲気を楽しみたいと思う自分にとっては、やっぱりちょっと短い。
旅はじっくりと考える場である。
無駄で助長な時間こそが旅の感動を生み出す原点だろう。
動画はこの記事の一番下の方に張り付けてある。
このブログの文章がグダグダと長いのも、誤解なくじっくり考えてもらうためである。
勝手な理由で申し訳ないが、よろしくお願いします。

さて宮崎を出発したのは4時50分。
天候は曇りだが次第に晴れる予定だ。最低気温は10度前後。
左手に日南海岸の潮騒を聞きながら、真っ暗な中、都井岬方面へ南下する。
都城を回ったほうが近いのだが、都城は濃霧が出ている予感がしたため、ルートは海沿いを選択した。

途中「石波(いしなみ)海岸」へ降りてみた。
この砂浜は全長が2kmもあり、非常に遠浅で波模様が美しい海岸である。
しかも離岸流が激しく海水浴客もサーファーもいないため、年中常に静かで浜を独占できる素晴らしい海岸だ。
西日本のほぼ全ての浜を見て回ったが、この浜は高知県の大岐(おおき)海岸と1、2位を争うほどのダントツの美しさを誇る浜である。
今回は天候不順で写真を撮ってない。
また別の機会に素晴らしさをお伝えしようと思う。

ここから国道448号を通り、串間(くしま)、志布志(しぶし)を通過する。
この2区間の海岸線は無名の名ルートで、あまり似たような雰囲気の場所を知らない。特殊な雰囲気を持つルートでおススメだ。

このまま志布志湾に沿って南下し、8時半ごろ最初の目的地の「吾平山上陵」へ到着する。
吾平山上陵は、その内容に相応しくなく「知られざる御陵」である。

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冒頭で述べたように、ここは神武天皇の両親の御陵とされる。
管理は宮内庁が行っており、規模は小さいものの伊勢神宮の内宮にとてもよく似ている。
昭和天皇と平成天皇(皇太子時代)も参られたことがあり、陵墓としてのランクはかなり高い。
もちろん本当に神武天皇の両親の御陵であるかどうかは定かではないが、天皇一族の血族の陵墓である可能性は十分に高いだろう。
発掘が待ち望まれるが、なにぶん宮内庁の管理下なので簡単ではない。

さてここから一気に直線距離で40㎞北上する。
曽於市の北東端、都城市との境界付近にある「檍神社」、今回の旅の主役だ。
到着は10時過ぎ。
まず最初に思うのは「なんでこんな場所に??」である。
周囲は普通の山林と農村で、ひっそりと佇んでいる。
では、その疑問を突き詰めることにしよう。

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前回の神話を簡単に復習すると、イザナギとイザナミは夫婦で、全ての神の祖である。イザナミが火の神を産んだ時にその火傷でイザナミは死んでしまう。イザナギは死んだイザナミに会いたくて死者の国である「黄泉(よみ)」へ向かうが、変わり果てた妻のイザナミに驚き、黄泉の国から逃げる。逃げる途中に黄泉の坂を通り、様々な追っ手を振り払い、なんとか帰って阿波岐原(あわぎはら)で汚れた体を清めた。というお話である。
黄泉の国の入り口は、日本書紀では紀伊半島熊野の花窟神社を、古事記では出雲の揖夜神社を指し示している。

最新の研究では、黄泉の国の入り口とは特定の場所ではなく漠然とした思想に基づいてその都度選ばれたものだと言われている。
これに関しては正解だろうと思う。
これは完全な想像だが、神武天皇が生活エリアを畿内に移し、その後出雲の豪族との戦争となる。それは激戦であり、その激戦地の死屍累々とした場所を黄泉の国に例えたかもしれない。
しかし時代とともにその戦は忘れ去られ、より生活圏の畿内に近い熊野を黄泉の国の入り口だと考え始めた。
恐らくこんなところではないか。

では「元祖の」黄泉の国の入り口はどこなのか?
必ず南九州にあるはずだと自分は確信し、この問題に注目した。
オモシロいのはイザナギが黄泉の国から逃げ帰り、体を清めたのは日向(宮崎市)の阿波岐原(または日本書紀では檍原)と、統一されていることだ。
この阿波岐原についても、黄泉の国の入り口と同じように漠然とした場所であるとの見方が強いのだが、しかし宮崎市には「阿波岐原」というそのままの地名があり、そのそばにある江田神社が禊を行った神社と比定されている。

さあ、ようやく話を元に戻そう。
今、訪れている「檍(あおき)神社」は一体なんなのか?

実はこのエリアこそが、このイザナギとイザナミの話の原点の「元祖の」地ではないかと思うのである。
江田神社の前の「元祖」禊を行った神社だということだ。

前回書いたようにイザナギとイザナミの話は、日本の原点を記した特別に重要な話だ。
例えば最初に生まれた日本の地は「淡路島」とされる。
なぜか?それは畿内へ上陸しようとしたが、畿内の豪族に敗れいったん退き、淡路島で生活圏を確保し立て直したからであろう。
つまり淡路島が畿内攻略の第1拠点だったからである。
このようにイザナギとイザナミの話は、ただのおとぎ話ではなく、極めて重要な意味が込められていると見るべきだ。
天皇一族にとって「日本の原点」とは「一族が畿内へやってきて成功したこと」であり、イザナギとイザナミの話には、天皇一族が日向から畿内へと東征した理由が隠されているのではないかと見ている。

イザナミは様々な神を産んだが、最期に火の神を産んで火傷で死んでしまう。
これは噴火による災害を示しているのではなかろうか。

この檍神社の話には続きがある。
この地より僅か5㎞ほど北に「嫁坂(よめさか)」という地名が残っている。
嫁坂の集落は都城盆地を見渡せる丘の中腹にあり、資料によればかつては「夜見坂(よみさか)」と呼ばれた。
しかしこの地名は黄泉(よみ)を連想させ縁起が悪いので、現在の嫁坂に改められたとされる。
どの程度のリアリティがあるかは現時点では不明だ。
だが前回述べたように、歴史からではなく地理からこの問題にアプローチすると極めて興味深いものが見えてくる。

この嫁坂から都城盆地を挟んで鎮座するのは標高1574mの「高千穂峰(たかちほのみね)」である。
神話で高千穂とは神の国・あの世を指し示す。
穂は稲を示し、高千穂峰の山頂付近はまるで稲のようにススキが生い茂り、幻想的な空間を生み出す。
そして何よりも、この山は太古より噴火が絶えない「霧島連山」の一部であるということだ。
現在も新燃岳が活発に噴火を繰り返し、その周辺地域は植物の生えない「死の地」となっている。都城盆地にも一時は激しく火山灰が降り注いだ。
イザナギの黄泉の国からの帰還の話は、この霧島連山の噴火によって災害に見舞われ、嫁坂(黄泉の国の入り口)を通ってイザナギは脱出し、丘の上にある檍神社のあたりで禊を行ったという伝承ではないのか。
そして、この嫁坂と檍神社のある大きな丘は、幾度となく霧島連山による火山噴火の被害にあった人々の避難場所となっていたのではないだろうか。

ここで時代をガツンと遡ってみると、もっと面白いことがわかる。
それは本当の地獄が現れた「巨大噴火」に関するものだ。
九州の巨大噴火について、少し見てみよう。

最初は阿蘇山だ。
阿蘇山の破局噴火は世界最大レベルで、火山学者で知らないものはない。
最大の噴火はAso4と呼ばれる噴火で、想像を絶する火砕流によって九州全土の生き物を焼却してしまった。ただしそれは9万年前になる。
日本の人類が関わるにはちょっと古すぎる。
次は鹿児島湾を作り上げた姶良(あいら)大噴火。これも即死レベルの噴火であったが3万年前だ。やはり少々古すぎる。

他に該当するものはないだろうか。
そう、喜界カルデラ噴火がある。
喜界カルデラによる火砕流は7300年前、最も身近な「大災害」となる。
この時代、日本は縄文時代の最盛期であった。
喜界カルデラは薩摩半島から南に約50㎞の海底にある。
喜界カルデラの火砕流は薩摩半島と大隅半島を一瞬にして焼き尽くした。
そしてまさにこの嫁坂付近が火砕流の到達境界ラインになるのである。
巨大噴火の火砕流は1000mもの山々を楽々超えるが、境界ラインであれば丘の上は被害を免れたかもしれない。
丘から見たその光景は、言うまでもなく地獄だったはずだ。

ただ、果たして7000年も前の大災害が伝承として残るだろうか。
だがこの災害を、現代の我々に降りかかったものとして見て欲しい。
鹿児島南部の100万から200万人が一瞬にして焼き尽くされ、現人類が有史以来経験したことのないレベルの焼け野原が一瞬にして出現する。
そして数メートルから数十メートルもの火山灰が数十年もの間、九州全土に降り注ぐ。
この恐怖の光景を目の当たりにした時、現代の人類にとって、その衝撃はいかほどだろうか。
縄文土器に代表されるように、縄文時代には縄文文化があった。
縄文土器の文様は、火炎をデザインしたものだ。
文化とは、文字に記されることなく代を経て受け継がれていく「情報」である。
同時に自然信仰も情報の脈々たる伝達を生む。

つまりこの想像を絶する死の記憶は、時代を経て漠然とした情報やおとぎ話や昔話となり、伝承されていた可能性があると見ている。
檍神社の地に、神社の前身であるイワクラが何らかの形であったならば、地元の自然信仰によってなおさら伝承されていた可能性はある。
そもそも目の前に高千穂峰という巨大なご神体が存在しているわけで、この山が消えてしまわない限り、伝承は続いてきたと見るべきではないか。
このような過去の壮絶な死の伝承に加え、神武天皇の当時に発生した比較的小規模な霧島連山や桜島の噴火による災害を幾度か経験し、彼らはこれを神々の怒りであると認識した。
こうして神武天皇はこの地を離れ、安全な地を求めて東へ旅立ったのではなかろうか。
そもそも食料も海産物も豊富な南九州の地を、わざわざ捨てて東征するわけがない。
そこには必ず「神の御示し」があったはずだ。
これこそが神武天皇東征の本当の理由ではないのか。

またこの丘は、神武天皇がしばしば訪れていたとされる霧島市の仮宮と宮崎のちょうとど真ん中にあたる。交通の要衝であった可能性も高く、移動の際の宿営地となっていたかもしれない。
今は何もないこの地は、当時はよく知られた地だったのではないだろうか。
都城盆地は年間を通して早朝は濃霧に覆われる。
丘の上は濃霧を逃れ、丘から高千穂峰を見ると眼下には霧が立ち込め、まるで異界を挟んでそびえたつ神々の世界や死者の国のように見えたかもしれない。

こうして南九州を見ていると、太古よりどれほどの物語が作られてきたのだろうかと思う。
日本の文化は我々が「歴史」と認識する時代を遥かに遡り、想像を超える長大な過去から受け継がれてきたものなのだろう。

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