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春と初夏のややこしい南九州 [ぶらり旅]

4月だ。
たぶん皆さんは南九州の季節的ややこしさを知らないだろう。
何がややこしいって、そりゃあんた(失礼)、全部ですがな。
この時期は本州は桜の話題で持ち切りだろう。旅好きならウズウズしてくるはずだ。
しか~し、南九州は全然違う。

まず桜だが、咲いている。
しかしいつ咲いているのかさっぱりわからない。2月ごろから早咲きが咲き始めるのだが、正確には行ってみないとわからないのだ。
桜の様子は長年本州で見てきたがこの原因はいくつかあり、特に影響が大きいのは、南九州は「桜の南限」にあたるということである。
その結果、場所によって咲いたり咲かなかったり、1km先で咲いているからといって、こっちで咲いているとは限らないというややこしさ。
さらにこの時期は、本州の5月中旬にあたる新緑の季節となる。
しかも南九州は亜熱帯に近く常緑広葉樹が中心だ。本州の人は知らないと思うが、常緑広葉樹は秋になっても葉が散ることなく一年中葉があるのだが「散らないわけではない」のだ。
ではいつ散るのか?春である。
新緑の季節になると新しい葉が出てくるのだが、このタイミングで古い葉は赤茶色に色付いて葉が散るのである。
そうして街中では春に落ち葉が大量に舞う。まるで秋のように。
さらに田植えは3月に終わっていて、晴れの日は夏のように暑い。
つまり4月上旬は、桜の季節であり、新緑の季節であり、落ち葉の季節であり、田植えは終わり、天候は夏のよう、ということになる。

さて、こんなややこしい南九州の4月上旬に、ぶらりと走ってきた。
今回は宮崎を出て西に走り、えびのを通過して鹿児島県の伊佐をぶらつき、そこから都城(みやこのじょう)へ南下して帰ってくる、一般道トータル約300kmの近距離ツーリングである。

出発は朝5時半。
寒い、寒いぞ。気温は4度くらいだろうか。南九州の真冬レベルだ。
これで昼は23度くらいになるから服装もややこしい。
ツーリングで最も重要なのはレイヤード(重ね着)である。
つまりその時のその気温や気候に合わせて、こまめに服装をチェンジすることが最も大切なのである。
荷物で最も嵩張るのは衣類だが、この点でも積載力最強のスーパーカブは心強い。
朝はガッツリ着込んで、だんだん脱いでいき、脱いだ衣類は後ろに積んでいけばいいだけだ。
スーパーカブ以上にツーリングに適したバイクは存在しないだろう。

えびのは標高200m~500mの高原状のエリアで、春らしさを味わえる素晴らしいところだ。
ここから国道447号を通って伊佐へ出る。
国道447号は一部「酷道」であり大型車は通れないが、現在トンネルを作っているようだ。
また一つ楽しい国道が消えるのかなぁと、少しばかり残念な気持ちである。
伊佐はえびののすぐ西隣りだが、雰囲気ががらりと変わる。えびのは畑の多い場所だが、伊佐は田園風景が広がる。
また、日本最大の現役金鉱山である菱刈(ひしかり)鉱山がある場所でもある。
伊佐からUターンして都城へは、霧島連山の北側山麓を走る「みやまきりしまロード」を走る。総延長が30km以上もある素晴らしい快走路なのだが、これが何故か超マイナールートでいつ走っても「オレ様ロード」なのである。
実はこれが南九州の最大の特徴でもある。
バイクがほとんどいないのである。
何故かバイクは超有名ルートしか走っておらず、そもそも台数が少ない。
この日は快晴の土曜日であったにも関わらず、まる1日走ってすれ違ったバイクはせいぜい3台。
このみやまきりしまロードにおいては、バイクを1台も見かけなかった。もちろん車もほとんどいなかったのだが。。

帰りの都城の観音池公園では、桜が満開だった。
さすがに多くの人が花見に訪れていたが、それでも混雑するほどではない。

不思議さ満点の南九州だが、バイク好きには文句なしの楽しいエリアである。

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「酷道447号の脇道にて」

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「みやまきりしまロード」

バイクにおける寒さの耐え方 [冬の夜間走行]

冬は寒い。バイクはもっと寒い。
だが冬の夜間のバイクは、悶絶するほど寒い。

今回は冬の夜間のバイクにおける「寒さの耐え方」についてお知らせしようと思う。
ちなみに「寒さの防ぎ方」ではない。何故なら冬の夜間のバイクにおいて、寒さを防ぐことはほぼ不可能だからだ。耐えるのだ。
もしも寒さを防ごうと考えているのならば、それは無駄なことだ。
冬の昼と夜を比較した場合、共通点が全くないほど冬の夜が過酷であると知っておこう。

では本題に入ろう。
それではポイントを説明しよう。

●2時間おきに軽く炭水化物と糖分をとる。
太陽光のない世界では体温が全てにおいて重要なので、これは知られざる重要なポイントだ。
暖かい飲み物は一時的には良いが、たいして効果はない。
やはりテッパンは炭水化物と糖分だ。
糖尿病でない限りこれは実行した方がよい。
なお当たり前だがガッツリ食べるのは無理。
チョコレートや飴、そしておにぎりなどを定期的に摂取すれば、体温を維持するために役立つ。

●じっとしていて丁度暖かいくらいの服装は、夜間では地獄を見る。
夜間走行で適切な服装は、じっとしていると少し汗ばむくらい、体を動かすと暑いと感じるくらいががベストである。
夜間走行では最初の1時間は何ともない。少々足りないかなという服装であっても特に問題は起きないだろう。
本当の寒さがやってくるのは走行開始から約2時間経過したあたりだ。
服装が足りないと、ありとあらゆる衣類が外気と同温になり衣類は意味をなさなくなる。そしてもはや走行困難な状況にまで陥る。
走り出して「お、丁度いいな」と感じたら、それはヤバい。じきに寒すぎて身動きが取れなくなるだろう。

●手の凍傷に要注意。最強はハンドルカバー。
最も耐え難いのは手だ。
今まで、-5度くらいまでの冬の長距離夜間走行を行ってきたが、やはり最大の問題点は「手」だ。
ありとあらゆるテストを行い、ありとあらゆる方法を試してみたが、何しろバイクは「手の操作」がある。
ごついグローブは操作性に問題があり危険であるため、寒いからといって防寒能力の完ぺきなグローブを使うのはほぼ不可能だ。
しかも夜間は日光が無い。ひたすら手に風が当たりグローブの温度は限りなく下がっていく。どんなごついグローブを用意しても、2時間もすれば氷水に浸したように全体が冷えてしまう。
我慢して走っているとある瞬間から手の痛みが消えることがある。
これが凍傷の入り口だ。
グリップヒーターは正直言ってこのレベルの寒さではあまり効果が無い。手のひら側は熱いくらいでも、手の甲側はもはや凍結寸前になるのである。耐えられなくなるのは時間の問題だ。
結果的にベストはハンドルカバーだ。なんともシンプルな解決方法である。
つまり手やグローブを温めることよりも、手やグローブに風を当てないことの方が遥かに重要だということだ。
ハンドルカバーによる操作性の低下は、ごついグローブによる操作性の低下より遥かにマシである。ハンドルカバーさえあれば、グローブを少々薄手の操作性の良いものへ変えることが可能となり、この選択がベストとなるだろう。

●保温の基本は空気を溜めること。
冬の昼間の走行は、前述したように太陽からのエネルギーを受けることによって、普通の防寒対策で全く問題ない。
これは曇りであっても大差なく、太陽エネルギーというものはそれほど凄まじく、そしてありがたいものなのである。
太陽の無い夜間は別世界となる。発熱するものは自分自身とカイロくらいのものだが、カイロも設置場所を考えないとほとんど役に立たない。
つまり自分の体温のみが、最も信頼できる暖房となる。
体温をいかに逃がさないようにするかが極めて重要なのだが、同時に重要なのが湿度の管理だ。
完ぺきな防寒具を着けて走ると、内部で蒸れまくってビショビショになり、最終的には恐ろしいほどの寒さと対面することになる。

自分の例を紹介しよう。

まず頭だが、自分はフルフェイスではなくジェットである。
何故ならシールドや眼鏡の曇り対策がめんどくさいから。
しかし人間は良く出来てるもんで顔面に直接風を当てない限り、真冬の夜間でも顔面だけはそれほど寒さを感じないのである。
極寒地に住んでいるエスキモーなどを見ても分かるように、顔面だけは出していてもそれほど問題はない。
ただしちゃんとしたジェットヘルメットを使うこと。顔面に風がバタバタ当たるようだと当然寒い。
自分はアヴァンドシリーズが好きで愛用しているが、とても良くできたヘルメットだ。
頭で重要なのは首回りと顔面以外の部分。ここは防がないと寒い。
よくあるのが目出し帽などのフリース素材の防寒具だが、いくつか問題がある。
まず首が動きにくくなる。首が動かないとバイクはちゃんと曲がらないし、周囲の安全確認にも問題が出てくる。
次に素材が厚みを持っているため、ヘルメットのサイズが合わなくなる。
1サイズ大きめのヘルメットを用意するだけだが、それでもめんどくさい。
色々試した結果、ベストなのは透湿素材のレインウェアのフードである。
厚みはほとんどない上に、これだけでウソのように頭の寒さは防げる。
元々ヘルメットには最強の断熱素材である発泡スチロールが使用されているため、これで十分なのである。

次に上半身。
最下層から挙げていくと、「袖なしTシャツ(下着)」「ヒートテックアンダーウェア」「アンダーダウンジャケット」「ダウンジャケット」「ジャージ」「透湿レインウェア」「透湿レインウェア」「ポン付けプロテクター」となっている。
ポイントはいくつかあるが、まずアンダーダウンジャケット。
これは肌に近い位置に高性能な薄手のダウンを着用することで、体温を最大限に溜め込むことを目的としている。カイロはこのアンダーダウンジャケットのポケットに入れている。
アンダーダウンジャケットは登山ショップなどで販売されているだろう。
その上から普通のダウンジャケット。これは言うまでもなく空気を溜めるための空間を作る。
面白いのは透湿レインウェアを2重に着ていること。
防風ジャケットでもなく、防寒ジャンパーでもない。ペラッペラのレインウェアだ。バイク用でもない。
何故なら防風ジャケットや防寒ジャンパーは蒸れやすく、高い湿度はダウンの能力を激減させてしまうからだ。
また透湿性のあるレインウェアであっても厚みがあって防風性を重視しているタイプだと動きづらい。
最初の透湿レインウェアはジャージまでの空気と温度をある程度遮断するためだ。
次の透湿レインウェアは、外からの雨や雪を防ぐためと、風を体に当てないためのものだ。
この2枚のレインウェアを1枚の厚みのある透湿レインウェアにまとめてしまうと、レインウェア自体が冷えて冷却装置のようになってしまい、結果的にダウン内の温度が下がってくるのである。
外側と内側のレインウェアを物理的に「離す」ことが重要なのである。
レインウェア自体は極めて薄いので、重ねても動きづらくなることはない。
なお透湿性の無いレインウェアは論外で、決して使用してはいけない。
登山をするわけではないのでゴアテックスほどの透湿性も必要ない。
個人的におススメなのは東レのブリザテックだ。安いし耐久性が高い。
レインウェアは典型的な消耗品なので、ガンガン使える安さと耐久性は重要なポイントである。
最後にポン付けのプロテクター。両腕と袖なしジャケットタイプ。これは意外に重要だ。
何故なら完ぺきな防風性を持ち、また衣類とは別に装着することによって動きやすさを実現できるからだ。

下半身は以下の通り。
「パンツ(下着)」「ヒートテックパンツ」「下着タイプ腰部プロテクター」「ジャージ」「ジーンズ生地パンツ」「透湿レインウェア」「ポン付けニーシンプロテクター」となっている。
上半身に比べてあまり重視していないのは、カブの場合足には風があまり当たらない上に、自分のカブにはフットパッドを設置しているためだ。
この程度で十分問題ない。

以上が寒さ対策の基本である。
しかしもう一度いっておく。
冬の夜間走行においては、寒さを防ぐのではなく、寒さに耐えることが重要。防ぐことは不可能だ。
中途半端な気持ちではチャレンジしないほうが良い。
安全第一でよろしく。

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噴火を目撃の巻 [ぶらり旅]

宮崎もすっかり冬になり、随分と冷え込むようになってきた。
とりあえずぶらりと、南方面へ出かけてみた。

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12月の宮崎は冬である。
本州の人は、宮崎には冬はなく一年中暖かいと思っている人もいるようだが、間違いなく冬はやってくる。そして結構寒い。
宮崎の関東との温度差は平均して3度高い。
逆に言うと気温は3度しか変わらない。
関東で最低気温が0度ならば、宮崎では3度ということになる。十分寒いし、山間部ではさらに冷え込み降雪もある。
ちなみに関東と高知の差は、おおよそ2度だ。
でも宮崎の冬はとても暖かく感じる。なんでだろう?

その謎の答えは(たぶん)太陽高度なのである。
宮崎は関東に比べて緯度が低いので、太陽高度が高く、日差しから直接受けるエネルギーが全然違うのである。
曇っている時や夜間の寒さは本州とほとんど変わらないのだが、晴れている時は圧倒的に宮崎が暖かいのである。
周辺の環境や偏西風などの空気の流れによる影響があるため、気温の変化は緩やかなのだが、太陽の日差しによるエネルギーは瞬間的に体感温度に直結するのである。

太陽高度が最も下がるのは12月の冬至の日付近で、それを過ぎると徐々に太陽高度は高くなってくる。
気温よりも太陽の直射の影響が大きいということは、晴れの日に限って言えば、宮崎の冬は冬至までで、そこを過ぎるとどんどん春らしくなってくる。
1月は完全に春の準備期間で、明らかに春らしくなり、菜の花が咲き乱れるのだ。

冬至を過ぎたばかりのこの日、天候は曇りのち晴れであったがとりあえず出かけてみた。
コースは定番の、宮崎~日南~串間・志布志~都城という、ぐるりと一周約150㎞のぶらり旅だ。
自分は関東の箱根よりも西の道路は、これまでにありとあらゆる道を走り回ってきたが、南九州は本当に飽きない。
何故かと言うと、台地上の道が多く見晴らしが良いということと、走る道のパターンが山ほどあるからだ。

例えば信州や南アルプスの風景はダイナミックで素晴らしいが、さてどこを走ろうかとなると、走る道は極めて限定されてくる。
ほとんどが幹線道路にリンクした道であり、どこかへ向かおうとすると「この道を走るしかない」となってしまう。
中四国も同様で、原則として山間部の谷間を道が走っているので、やはり走るコースは限定される。
ところが南九州はそうではない。ありとあらゆる方向へ道が走っていて、気分次第でどの道でもぶらぶら走れてしまうのである。
幹線道路を普通に走るなんてもったいない。
南九州の道は、カブのためにあるような道ばかりなのだ。

この日、志布志から都城へ走っていると西の空に何やら異変が。
お!?と思って見ていると、どんどんモクモクと雲が湧き上がって来るではないか。
そう、噴火だ。
噴火している山は桜島である。
この日の噴火は結構大きかったようで、噴煙は3000mまで立ち上り、なんと40㎞も離れたこの位置からはっきりと視認できた。
ちなみに80㎞離れた宮崎でも、桜島の大きな噴火の時には「空振」といって、「どどどーん!」という衝撃波が伝わってくるのである。
自然とは凄いものなのだなぁと思う。
南九州は間違いなく日本の自然信仰の原点だ。

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[ 40kmも離れているのにこの迫力 ] 



紅葉の山を走る [ぶらり旅]

今回は秋の紅葉真っ盛りの九州中部の山々を走りまくる。
走りまくると言う通り、本当に山ばかりだ。ウンザリするほど山道を走りまくるのである。
主な目的地は熊本県の五木、宮崎県の五ヶ瀬である。

宮崎出発は3時30分。
国道10号から268号を走り、小林へ向かう。
気温は10度前後と、予想ほど寒くはない。
とは言うものの、暖かいわけではない。
バイクは走ると体感気温が10度から15度ほど下がる。だがこれは日中の話。
夜間はもっと遥かに寒い。
難しいのは服装の選択だ。
夜間走行を昼間走行と同じように考えると、寒さでとんでもないことになる。
特に初心者が陥りやすいのが、体温低下による体力消耗だ。体力消耗の先にあるのは「事故」である。

夜間走行の服装の目安は「少し体を動かすと汗が出る」くらいである。
「少し動かすと丁度良い」レベルだと2時間以内なら耐えられるだろう。
しかし2時間を超えると、間違いなくあまりの寒さで耐え切れなくなる。
そうするとアクセルをふかして加速させる行為が「寒さを増加させる」ことと連動して恐怖となり、先に進むことができなくなるのだ。
恐怖という言葉を使ったがこれは大袈裟なものではなく、文字通り「恐怖」となる。
その恐怖によって、アクセルが握れなくなるのだ。
夜間走行の寒さは恐怖そのものなのである。

そして「2時間」が、夜間走行の重要な境目だ。2時間以内は夜間走行とは呼べない。
それほどこの2時間の境界線の意味は大きい。
過去にはマイナス5度の夜間を一晩走り切ったこともあるが、もはや旅と言うよりも闘いと言った方がよい。このレベルになると凍傷にも注意する必要がある。
また、レイヤードによって厚着をすることになるわけだが、透湿性のあるウェアでないとこれまた蒸れて大変なことになってしまう。汗をかいて服が湿ってしまうと、どんなに温めても保温が効かなくなってくる。特にダウンは水分に弱い。冬の汗は大敵である。

冬の夜間は状況に合わせて様々なウェアを常備して走る必要があり、これは荷物量の著しい増加を意味する。荷物で最もかさばるのは、冬用ウェアなのである。
こういった点においても荷物積載量が圧倒的に多いスーパーカブは、長距離走行の点で他のバイクに比べて完全なアドバンテージを有している。

小林の手前から北に進路をとり、裏道を走り続けて加久藤峠手前に出た。
この峠は2つの大きなループ橋を含む多数の橋があり、冬場の夜間はガッチガチに凍結することで有名だ。

加久藤峠を超えて人吉盆地に達すると、霧に出くわしてしまった。
南九州を走り回る上で、霧は避けて通れないものだ。
とにかく霧の無いエリアに出るまで、速度を落として耐えて走るしかない。決して無理はできない。

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     [ 霧の人吉盆地 ]

最初の目的地である五木に入ると、美しい紅葉が目立ち始めた。
だがのんびりはできない。
この五木を走る国道445号は部分的に相当な狭路となっており、特に二本杉峠を越えて国道218号に至るまでの下りルートはひたすら狭路である。
紅葉シーズンは大量の観光客が熊本から押し寄せ、しかも下手なドライバーがわんさかやってくるため、大渋滞になってしまう。
渋滞にならなくとも、カーブの飛び出し走行などによって事故に巻き込まれるのがオチである。
不本意ながらこのエリアは早朝に素早く通過するのがベストである。

国道218号に出てから東進するとすぐに霊台(れいだい)橋が左手に見えてくる。
日本最大の石橋で、肥後の石工によって製作されたものだ。
あまり知られていないが南九州には石橋が多数ある。
霊台橋を作った石工は東京の日本橋なども手掛けており、当時、最高峰の技術を持っていたとされる。
この場所は熊本地震の震源地からわずかに南東にずれた位置にあるのだが、石橋は何一つ壊れておらず、当時の技術がいかに凄いものであったかを理解できる。

霊台橋を過ぎると国道とはお別れで、緑川の南部山沿いを走る。
谷底は地震の被害などもあり、なんとも暗い雰囲気が続くのだが、ひとたび台地の上に上がると状況は一変する。
まるで別世界。
見晴らしが良く、快適な農村ルートが続く。

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ほどなく五ヶ瀬に出る。
ここから国道503号を走る。
国道503号の飯干峠は、宮崎県にある標高1000mを超える3つの国道峠のひとつで、登りも下りも景色が良い。
この峠は西郷隆盛が西南戦争で敗れて撤退するときに通った峠として知られる。
当時の人の脚力にはただただ驚かされる。
峠を下ってから美々津で国道10号へ合流。
そこから宮崎へ戻った。

トータル11時間7分。394kmの素晴らしい旅だった。

※道中の様子はYoutubeにあげたので、暇な人はぜひご覧ください。

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南九州「神話」巡り その1 [南九州と神話]

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「ダグリ岬付近にて」

さて、今回は前回の続き。
それではいよいよ、南九州の神話の地をぶらりと巡ってみようと思う。
今回はホントに話が長い。ホントすみません。
でもきっと面白い話が見つかるので(ヒマなら)読んで欲しい。

今回訪れる場所は主に2か所。

1か所目は鹿児島県の大隅半島入り口付近に鎮座する、吾平山上陵(あいらやまじょうりょう)。吾平山上陵は初代天皇である神武天皇の両親の墓と言い伝えられ、現在でも宮内庁による管轄となっている知られざる陵墓だ。

2か所目は鹿児島県曽於(そお)の北東端にある檍(あおき)神社だ。イザナギが体を清めたとされる神社である。この神社は古事記と日本書紀には登場しない。これまた知られざる神社だ。さて何故なのかを考えてみようということだ。

道中の詳細はYoutubeにアップした動画も見ていただければ、分かりやすいと思う。
ちなみに自分の動画は長い。話も長いが動画も長い。とにかく長い。30分から45分を目安にしている。
多くの他の人の旅動画を見ているが、そのほぼ全てが短すぎると常々思っていたからだ。
もちろん短くダイジェストで面白い部分だけをまとめたほうが多くの人に好まれるだろうし、何かと「急ぐ」現代人にはぴったりで、さらに視聴回数も稼げる。
しかし旅の雰囲気を楽しみたいと思う自分にとっては、やっぱりちょっと短い。
旅はじっくりと考える場である。
無駄で助長な時間こそが旅の感動を生み出す原点だろう。
動画はこの記事の一番下の方に張り付けてある。
このブログの文章がグダグダと長いのも、誤解なくじっくり考えてもらうためである。
勝手な理由で申し訳ないが、よろしくお願いします。

さて宮崎を出発したのは4時50分。
天候は曇りだが次第に晴れる予定だ。最低気温は10度前後。
左手に日南海岸の潮騒を聞きながら、真っ暗な中、都井岬方面へ南下する。
都城を回ったほうが近いのだが、都城は濃霧が出ている予感がしたため、ルートは海沿いを選択した。

途中「石波(いしなみ)海岸」へ降りてみた。
この砂浜は全長が2kmもあり、非常に遠浅で波模様が美しい海岸である。
しかも離岸流が激しく海水浴客もサーファーもいないため、年中常に静かで浜を独占できる素晴らしい海岸だ。
西日本のほぼ全ての浜を見て回ったが、この浜は高知県の大岐(おおき)海岸と1、2位を争うほどのダントツの美しさを誇る浜である。
今回は天候不順で写真を撮ってない。
また別の機会に素晴らしさをお伝えしようと思う。

ここから国道448号を通り、串間(くしま)、志布志(しぶし)を通過する。
この2区間の海岸線は無名の名ルートで、あまり似たような雰囲気の場所を知らない。特殊な雰囲気を持つルートでおススメだ。

このまま志布志湾に沿って南下し、8時半ごろ最初の目的地の「吾平山上陵」へ到着する。
吾平山上陵は、その内容に相応しくなく「知られざる御陵」である。

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冒頭で述べたように、ここは神武天皇の両親の御陵とされる。
管理は宮内庁が行っており、規模は小さいものの伊勢神宮の内宮にとてもよく似ている。
昭和天皇と平成天皇(皇太子時代)も参られたことがあり、陵墓としてのランクはかなり高い。
もちろん本当に神武天皇の両親の御陵であるかどうかは定かではないが、天皇一族の血族の陵墓である可能性は十分に高いだろう。
発掘が待ち望まれるが、なにぶん宮内庁の管理下なので簡単ではない。

さてここから一気に直線距離で40㎞北上する。
曽於市の北東端、都城市との境界付近にある「檍神社」、今回の旅の主役だ。
到着は10時過ぎ。
まず最初に思うのは「なんでこんな場所に??」である。
周囲は普通の山林と農村で、ひっそりと佇んでいる。
では、その疑問を突き詰めることにしよう。

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前回の神話を簡単に復習すると、イザナギとイザナミは夫婦で、全ての神の祖である。イザナミが火の神を産んだ時にその火傷でイザナミは死んでしまう。イザナギは死んだイザナミに会いたくて死者の国である「黄泉(よみ)」へ向かうが、変わり果てた妻のイザナミに驚き、黄泉の国から逃げる。逃げる途中に黄泉の坂を通り、様々な追っ手を振り払い、なんとか帰って阿波岐原(あわぎはら)で汚れた体を清めた。というお話である。
黄泉の国の入り口は、日本書紀では紀伊半島熊野の花窟神社を、古事記では出雲の揖夜神社を指し示している。

最新の研究では、黄泉の国の入り口とは特定の場所ではなく漠然とした思想に基づいてその都度選ばれたものだと言われている。
これに関しては正解だろうと思う。
これは完全な想像だが、神武天皇が生活エリアを畿内に移し、その後出雲の豪族との戦争となる。それは激戦であり、その激戦地の死屍累々とした場所を黄泉の国に例えたかもしれない。
しかし時代とともにその戦は忘れ去られ、より生活圏の畿内に近い熊野を黄泉の国の入り口だと考え始めた。
恐らくこんなところではないか。

では「元祖の」黄泉の国の入り口はどこなのか?
必ず南九州にあるはずだと自分は確信し、この問題に注目した。
オモシロいのはイザナギが黄泉の国から逃げ帰り、体を清めたのは日向(宮崎市)の阿波岐原(または日本書紀では檍原)と、統一されていることだ。
この阿波岐原についても、黄泉の国の入り口と同じように漠然とした場所であるとの見方が強いのだが、しかし宮崎市には「阿波岐原」というそのままの地名があり、そのそばにある江田神社が禊を行った神社と比定されている。

さあ、ようやく話を元に戻そう。
今、訪れている「檍(あおき)神社」は一体なんなのか?

実はこのエリアこそが、このイザナギとイザナミの話の原点の「元祖の」地ではないかと思うのである。
江田神社の前の「元祖」禊を行った神社だということだ。

前回書いたようにイザナギとイザナミの話は、日本の原点を記した特別に重要な話だ。
例えば最初に生まれた日本の地は「淡路島」とされる。
なぜか?それは畿内へ上陸しようとしたが、畿内の豪族に敗れいったん退き、淡路島で生活圏を確保し立て直したからであろう。
つまり淡路島が畿内攻略の第1拠点だったからである。
このようにイザナギとイザナミの話は、ただのおとぎ話ではなく、極めて重要な意味が込められていると見るべきだ。
天皇一族にとって「日本の原点」とは「一族が畿内へやってきて成功したこと」であり、イザナギとイザナミの話には、天皇一族が日向から畿内へと東征した理由が隠されているのではないかと見ている。

イザナミは様々な神を産んだが、最期に火の神を産んで火傷で死んでしまう。
これは噴火による災害を示しているのではなかろうか。

この檍神社の話には続きがある。
この地より僅か5㎞ほど北に「嫁坂(よめさか)」という地名が残っている。
嫁坂の集落は都城盆地を見渡せる丘の中腹にあり、資料によればかつては「夜見坂(よみさか)」と呼ばれた。
しかしこの地名は黄泉(よみ)を連想させ縁起が悪いので、現在の嫁坂に改められたとされる。
どの程度のリアリティがあるかは現時点では不明だ。
だが前回述べたように、歴史からではなく地理からこの問題にアプローチすると極めて興味深いものが見えてくる。

この嫁坂から都城盆地を挟んで鎮座するのは標高1574mの「高千穂峰(たかちほのみね)」である。
神話で高千穂とは神の国・あの世を指し示す。
穂は稲を示し、高千穂峰の山頂付近はまるで稲のようにススキが生い茂り、幻想的な空間を生み出す。
そして何よりも、この山は太古より噴火が絶えない「霧島連山」の一部であるということだ。
現在も新燃岳が活発に噴火を繰り返し、その周辺地域は植物の生えない「死の地」となっている。都城盆地にも一時は激しく火山灰が降り注いだ。
イザナギの黄泉の国からの帰還の話は、この霧島連山の噴火によって災害に見舞われ、嫁坂(黄泉の国の入り口)を通ってイザナギは脱出し、丘の上にある檍神社のあたりで禊を行ったという伝承ではないのか。
そして、この嫁坂と檍神社のある大きな丘は、幾度となく霧島連山による火山噴火の被害にあった人々の避難場所となっていたのではないだろうか。

ここで時代をガツンと遡ってみると、もっと面白いことがわかる。
それは本当の地獄が現れた「巨大噴火」に関するものだ。
九州の巨大噴火について、少し見てみよう。

最初は阿蘇山だ。
阿蘇山の破局噴火は世界最大レベルで、火山学者で知らないものはない。
最大の噴火はAso4と呼ばれる噴火で、想像を絶する火砕流によって九州全土の生き物を焼却してしまった。ただしそれは9万年前になる。
日本の人類が関わるにはちょっと古すぎる。
次は鹿児島湾を作り上げた姶良(あいら)大噴火。これも即死レベルの噴火であったが3万年前だ。やはり少々古すぎる。

他に該当するものはないだろうか。
そう、喜界カルデラ噴火がある。
喜界カルデラによる火砕流は7300年前、最も身近な「大災害」となる。
この時代、日本は縄文時代の最盛期であった。
喜界カルデラは薩摩半島から南に約50㎞の海底にある。
喜界カルデラの火砕流は薩摩半島と大隅半島を一瞬にして焼き尽くした。
そしてまさにこの嫁坂付近が火砕流の到達境界ラインになるのである。
巨大噴火の火砕流は1000mもの山々を楽々超えるが、境界ラインであれば丘の上は被害を免れたかもしれない。
丘から見たその光景は、言うまでもなく地獄だったはずだ。

ただ、果たして7000年も前の大災害が伝承として残るだろうか。
だがこの災害を、現代の我々に降りかかったものとして見て欲しい。
鹿児島南部の100万から200万人が一瞬にして焼き尽くされ、現人類が有史以来経験したことのないレベルの焼け野原が一瞬にして出現する。
そして数メートルから数十メートルもの火山灰が数十年もの間、九州全土に降り注ぐ。
この恐怖の光景を目の当たりにした時、現代の人類にとって、その衝撃はいかほどだろうか。
縄文土器に代表されるように、縄文時代には縄文文化があった。
縄文土器の文様は、火炎をデザインしたものだ。
文化とは、文字に記されることなく代を経て受け継がれていく「情報」である。
同時に自然信仰も情報の脈々たる伝達を生む。

つまりこの想像を絶する死の記憶は、時代を経て漠然とした情報やおとぎ話や昔話となり、伝承されていた可能性があると見ている。
檍神社の地に、神社の前身であるイワクラが何らかの形であったならば、地元の自然信仰によってなおさら伝承されていた可能性はある。
そもそも目の前に高千穂峰という巨大なご神体が存在しているわけで、この山が消えてしまわない限り、伝承は続いてきたと見るべきではないか。
このような過去の壮絶な死の伝承に加え、神武天皇の当時に発生した比較的小規模な霧島連山や桜島の噴火による災害を幾度か経験し、彼らはこれを神々の怒りであると認識した。
こうして神武天皇はこの地を離れ、安全な地を求めて東へ旅立ったのではなかろうか。
そもそも食料も海産物も豊富な南九州の地を、わざわざ捨てて東征するわけがない。
そこには必ず「神の御示し」があったはずだ。
これこそが神武天皇東征の本当の理由ではないのか。

またこの丘は、神武天皇がしばしば訪れていたとされる霧島市の仮宮と宮崎のちょうとど真ん中にあたる。交通の要衝であった可能性も高く、移動の際の宿営地となっていたかもしれない。
今は何もないこの地は、当時はよく知られた地だったのではないだろうか。
都城盆地は年間を通して早朝は濃霧に覆われる。
丘の上は濃霧を逃れ、丘から高千穂峰を見ると眼下には霧が立ち込め、まるで異界を挟んでそびえたつ神々の世界や死者の国のように見えたかもしれない。

こうして南九州を見ていると、太古よりどれほどの物語が作られてきたのだろうかと思う。
日本の文化は我々が「歴史」と認識する時代を遥かに遡り、想像を超える長大な過去から受け継がれてきたものなのだろう。

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